カラコルムハイウェイ

“ハイウェイ”と言われれば、普通は「高速道路」か「自動車専用道路」をイメージするでしょう。でも、それはいわゆる先進諸国の住民の考えで、世界には想像を超えたハイウェイが数多く存在します。

中でも“カラコルムハイウェイ”はイチオシです。別に押す必要はないですが、前述のイメージを完全に覆すという意味では、世界一ではないでしょうか?

なにしろ、未舗装なのは当たり前、しばしばCIMG4241ヤギの群れが通ったりしますから。

ギルギットの映画館~手を繋いで 

CIMG3739そのおいしいケバブ屋の主人に映画に誘われた。その店で時々主人に頭を引っ叩かれながらも甲斐甲斐しく働いている子供=デッチたちも連れて行ってもらえるとあって、皆、大喜びでした。何しろ映画は山の町では大きな娯楽のひとつです。自分には断る理由もないし、パキスタン映画にも興味があったので喜んで行く事にしました。

ある日の夕方、約束の時間にお店へ行くと、主人は「おお!ジャパニ、来たか!」と言って、デッチたちと一緒に店を出ました。すると、彼はやおら僕の片手を握り出したのです。意味が分らずやや呆然と、彼に手を握られたまま二人並んで通りを歩き映画館へ。当時は男性と(女性とも)手を繋いで歩くと言う行為は僕にはほとんど経験は無く、けっこう恥ずかしい気がしましたが、デッチたちも別段気にする様子は無く、通りの人々も視線を投げては来るけどそれは手を繋いでいることに対してではなく、地元民とジャパニが何やら親しげに歩いていることに少し興味がある、と言う感じのものだった。

そう、パキスタンでは(パキスタンだけと言う訳でもない)男性同士手を繋ぐのは、仲の良い友達がするごく自然な行為なのでした。別にゲイでは無かったのです。つまり、彼は、遠い国から来てくれた素直なジャパニ(?)とこうして親しく友達になって、映画を見に行く事に多少の優越感があったのかもしれないし、それを地元の人々に見せびらかしたいと言う気持ちも少しはあったのかも。もしくは、そんな俗的な考えでは無くただ純粋に異国の若者に対して親切にしてくれただけだったのかもしれない。彼の言動からはどちらかと言えば後者のニュアンスのほうがより自然な気がした。

まあ、とにかく、この国の面白い習慣を体験できたことは喜ばしい事だ。ちなみにパキスタン映画のほうは、言葉がウルドゥー語だし字幕なんかある訳ないので、しかも恐ろしく長い映画(インド映画なども同様、平気で4時間くらい上映する)だったため、お世辞にも楽しい映画とは言えなかったが、ケバブ屋の彼にカラコルムの町で映画を観させて貰ったことだけでもこんな幸せな事は無いでしょう。

パキスタン人は一般に、バカが付くくらい親切だ。親切を通りこしてウットオシイと感じてしまうこともあるくらいだ。イスラマバードやラワルピンディなどの大都市でも、こっちが困っているそぶりを見せようものなら(或いはそんなそぶりが無くても)、「ようし、わかった。俺に任せろ。一緒にそこまで行こうじゃないか。じゃあ、俺の家に来てお茶を飲もう。腹が減ったな?晩飯を食べて行けよ。」ということに普通になる。「明日もおいでよ。散歩をしようじゃないか。」とか、「俺の友達も呼んでおくから、みんなで卓球でもしよう。」とか、そういうことに普通になる。僕は何度こういう親切に出会ったか分らない。そんな中で一度だって騙されたり、盗まれたりしたことも無い。

パキスタンの習慣

CIMG4275話は変わりますが、パキスタン(というかイスラム圏全般かも?)には面白い習慣があります。パキスタンは広い国(日本の約2倍)ですが、僕の行先は決まって“北部地方(Northern Area)”です。なぜかと言うと世界第2位の高峰K2(別称:ゴッドウィンオースチン山、中国名チョゴリ)や、“魔の山ナンガパルバット”などカラコルム山脈の山々があるし、インダス川源流部の大峡谷、中国国境クンジェラーブ峠、不老長寿のフンザ王国、人種のルツボとも言われるギルギットの町など、その魅力は尽きないからです。そのギルギットという北部地方の中心とも言える街に数日間滞在したことがあります。一人旅だったし、チャンスがあればトレッキングみたいな山歩きをしようと思っていたので、小さなテントや最低限のキャンプ道具を担いでいました。ギルギットには多くの宿泊施設がありましたが、せっかくテントがあるのだから、町でもテントに泊まろうと考えた。しかし、そのへんのオジサンが普通に鉄砲を抱えて歩いているような町だし、時々宗教派閥抗争でドンパチがあって人が死ぬような土地だから、その辺の空き地にテントを張るのは危険だし無謀だと思った。そこで、ある広い中庭を持つ安そうなホテルに頼んで、中庭にテントを張らせてもらったのです。宿の主人に「中庭にキャンプさせて下さい。」と言うと、二つ返事でOK。さすがに無料はないので、幾らかと聞いたら(確か)20ルピーと言われた。当時で80円くらいでしょうか?

ギルギットはメインストリートがびろ~んと長く、その両脇にお店やレストランやホテルなどが連なっています。その中の一件のレストランに通うようになって、そこの髭を蓄えた精悍な顔つきのご主人と少し親しくなったのです。パキスタン人の男性はたいてい髭を生やしています。彼は、歌手の松崎しげるに少し似ていて、体格が良く切符の良い感じの男でした。ある日、彼に誘われて、ギルギットの映画館に行きました。面白い映画をやっているから観に行かないか?と誘われたのです。

ネパール語のイロハ

CIMG1171そう、ネパール語に限らず、未知の言語を憶えようとするときに、まず取っ掛かりとして有効且つ利用価値が大きいのが「数」である。

数はどんな言語にも存在するし、数を言えれば会話の一部は成立する。実際、日常生活の中で数を言わない日は無いだろう。何時に来ますか?何人ですか?何個必要ですか?・・・等々、数は人間にとって非常に重要な位置を占めている。

話は逸れるが、動物は数を数えるだろうか?犬が数を数えて「ワン、ワン、ワン!(3つです)」と言っているかどうかは確かめようもないが、想像するに動物は多分、数を数えはしないだろう。何故なら動物は時計を持たないし時間の概念すらないだろう。餌になる虫を何個食べるか決めてから食べないし、たいていは腹いっぱいになるまでか、或いは目の前にある捕獲可能な量だけ食べるだろう。

さて、僕もまずはネパール語を1から10まで憶えることにした。ガイドのモハンや宿のお姉さんに教えてもらった。

エク(1)、ドゥイ(2)、ティーン(3)、チャール(4)、パーンチ(5)、ツォ(6)、サート(7)、アート(8)、ノウ(9)、ダス(10)

日本語にも英語にも、似ても似つかぬ数字。これはインドのヒンドゥー語、パキスタンのウルドゥー語などもほとんど同じように言う(ということが後でわかった)。しかし、一部、ネパール訛りなのか、ヒンドゥーやウルドゥーで2は“ドー”というし、6は“チェ”と言う。

数を10まで覚えたら次は身近なものの単語を憶える。この場合は、実用的だから食べ物や飲み物が良い。僕が最初に憶えたのは(と断言はできないが多分)、“お茶(チヤ)”、“水(パニ)”、“ご飯=食事(カナ)”など。

お茶と言えばネパールでは紅茶、しかも普通は砂糖たっぷりのミルクティーを指し、“チヤ”と言う。インドなどで“チャイ”と呼ばれる物に近い。コップの事は“カップ”と言う。“下さい”は“ディノース(正確にはディヌ・ホス、正確と入ってもカタカナでの表現には限界がある)”。

これで、宿のお姉さんに「お茶を一杯下さい。」と話しかける事が可能になった。内向的な自分には結構勇気のいることだが、ある茶店で「エク・カップ・チヤ・ディノース」と言ってみた。お姉さんは「ハジュール(かしこまりました、的な言葉)!」と言って、理解してくれた。

ああ、嬉しいな!

ネパール語を憶えなければ

IMG_2985ところで、たった一人で外国に行く場合、当然ながら“会話”が大きな問題となり、コミュニケーションの障壁となる。今は世界中に日本人が住んでいるし、よっぽど辺鄙な場所でなければいくらマイナーな地域でも、旅行中に数人の日本人に出会ったり、見かけたりするものだ。

夏のヨーロッパ、特に人気の高いアルプスの観光地へ行けば、6両編成の登山電車のうち、5両半が日本人、ということも決して珍しい事でではない。そんな状況なら別に無理して英語や現地語を話す必要もないし、話す機会も少ない。

僕が生まれて初めての外国、27年前のネパールの、しかも街から遠く離れたヒマラヤ山脈を歩いている時でさえ、数人の日本人トレッカーに出会った。

とは言え、ガイドも宿のおじさんも、飯屋のお姉さんも当然皆ネパール人だから、「ちょっと休ませて欲しい。」とか、「今日泊まれますか?」とか、「昼飯ありますか?」とか言いたいときに日本語で言っても通じない。ネパール語でなくても、英語を話せれば結構な山奥でも不自由は無かった。外国人トレッカーが多いネパールの山中では、学校なんて行ったこともない村人たちでも、ある程度の英語は喋るからだ。それは生活のためでもあるからだ。そんな彼らは喋る、聴くはOKでも、読む、書くはほとんどできない。これは一般的な日本人の状況と真逆と言える。どっちが役に立つか?もちろん、前者に決まってる。そして、この現象は現在でもさほど変化が無い。

当時は僕も英語なんてほとんど喋れなかったが、中学校で習った英単語を並べたてることくらいは出来た。必要に迫られれば必死になる。そのため、超ブロークンではあるものの、一定のコミュニケーションは取れたのだ。しかし、問題なのは、もともと話題に乏しく、積極性に欠ける自分の性格の方だった。特に日本に居ても対人コミュニケーションが不得手なので、対する人がネパール人に変わっても、その会話は極めて不毛なものになってしまう。

でも、せっかくネパールまで来ているのだから、出来るだけネパール語というものを憶えよう、という気になったのだ。

札幌市中央区で・・・!

画像 0062011.10.21

突然、話は横道に逸れます。

昨日の朝ジョギング中に、なんと!・・・ハクチョウのV字編隊を目撃しました!

快晴の青空をバックに、朝日に輝いて「クワオーッ!クワオーッ!」と声を掛け合いながら。感動しました。こんな大都市札幌の中心部(大倉山ジャンプ台の上空)を大型の渡り鳥が通るなんて。彼らは南へ向かいましたが、どこに行くのかな?大沼公園のあたりかな?30羽くらい居たでしょうか?長旅お疲れ様です。

春にはまた戻ってくるのでしょう。ハクチョウの皆さん、お元気で。

ネパールその後 果敢にランタン谷へ!

画像 333ここで死んでしまうかも知れない!恐ろしい一夜が明けた。不思議な事に、全身を震わせたあれほどの高熱はすっかり下がってしまい、むしろスッキリ気分の良い朝になった。空腹感さえ覚える。あの、恐怖の悪寒は一体なんだったのだろう???急性の赤痢とか、急性のA型肝炎なんかがあるとしたら、それかもしれない。驚くほど急激に高熱が出て、そしてその後急速に平熱に戻った。病気ではなくあまりの目まぐるしいカルチャーショックに精神が付いていけない一種の知恵熱のようなものだったのかもしれない。

はじめてのネパール(26年前のお話)その4

CIMG7004結果は推して知るべし。まだトレッキングをスタートして1日しか経っていないのに、だ。なぜ自分は大丈夫だ、と思い込んでいたのか?そしてガイドのモハンもまわりのネパール人に「こいつは日本人だから大丈夫だ!」と言いふらしていた。それを聞いた自分はますます根拠のない自信を深め、最悪の状態へと加速して行く。

ダルバートは辛いし、生ぬるいので少し気味悪かったが、満腹感を感じながら、トレッキングを続ける。それにしでもあの辛さは、歩き始めてもまだ口の中に残っていて、おまけに暑いので喉が渇いてしょうがない。水が飲みたくて飲みたくて、そこらへんのゴムホースから出ている水をがぶがぶ飲んで、しまった。

今の自分なら絶対にこんな愚行を犯さない。

無知とはあまりにも恐ろしい。

夕方近く、車道脇の掘建て小屋に到着。そこがトレッキング初日の宿となった。入口には一応「なんとかHOTEL」 という粗末な看板がぶら下がっていた。「これがホテルか・・・。」目まぐるしく飛び込んでくるカルチャーショック、自分の精神は無意識のうちに、すでに一部が崩壊しつつあったのかもしれない。

その夜、かつて経験の無い恐怖に襲われた。

正確に言うと日没直後くらいか。晩飯はやっぱり激辛のヌードルかなんかで、同宿の初老の確かフランス人はチリを入れないでくれ、と言って食っていたが、自分は例の妙な自信があって昼飯の経験をすっかり忘れ、チリは大丈夫だ、と言ってしまった。モハンも隣で「ジャパニはOKだ」と言うし、宿の親父も妙に感心したようなので、もう後に引けない。結局昼間と同じ轍を踏み、汚いコップに入った生水をガブガブやる羽目に。

そうして、もう寝るだけとなって、持参したシュラフに潜り込んだが、数10分後、激しい悪寒に襲われ、ガタガタ震えだし、歯の根が合わない状態になる。カタカタと歯の音、ブルブルと体が震え、測ってはいないが体感で自分の体温は多分間違い無く40度以上。まわりの人に気付かれないよう賢明に悪寒に耐えながら、「ここで自分は死ぬのか?」などと考える。                   (HAYA) 

はじめてのネパール(26年前のお話)その3

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 今ではこのトリスリバザールから歩き始めるトレッカーはほとんど皆無だろう。なぜなら当時、徒歩で丸2日分の行程を、今なら数時間、車の移動で済むからだ。当時も車道は存在したが乗合パスの類は少なく、ランタン・トレッキングの歩き出しはトリスリバザールが常識であった。

 のどかな農村風景の中を数時間歩くと「ベトラワチ」という、へんてこりんで一度覚えたら忘れない名前の村に着く。モハンは「腹が減ったので昼飯を食おう」と言って、さっさと道ばたの食堂に入っていった。

 昼飯は生まれて初めての国民的ネパール定食「ダルバート」だ。「ダルバート」はステンレスの仕切り皿(キャンプで使うやつみたいなのだが、日本にはありそうでお目にかかれない)にライス(インディカ米なので細長く粘り気は少ない、かといってさらさらしたのでなく、独特の炊き方によってある程度粘着感がある)、タルカリと呼ばれるカレー味の野菜(ジャガイモ、ニンジンなど根菜とカリフラワー、インゲン、青菜などを煮たもの)、ダル(大豆)スープ、そしてちょっぴりアチヤール(ピクルスみたいな漬物)で構成される。基本形は上記のようなもので、あとはその店、その家庭によって好きなようにアレンジされている。

 マス(肉)が加われば高級な部類に入る。マスで一般的なのは、クカラ・コ・マス(鶏・の・肉)だ。日本で栽培されている運動不足のブロイラーと違い、肉そのものに濃厚な味がある。またそれらが産み落とす鶏卵の味も濃厚で、日本のスーパーで、売っている黄身の色が不自然に黄色いのではなく、卵黄が白っぽい。他の種類の肉はあまりお目にかからないが、ベイシ・コ・マス(水牛・の・肉)、ベラ・コ・マス(山羊・の・肉)などが一般的。牛は神様だから牛肉は存在しない。

 さて、生まれて初めて食べたダルバートの味はまあまあだったが、噂には聞いていたがその辛さは想像を絶する程のものだ。普通外国人ツーリストに対しては、言わなくても辛さは控えめにするようだが、どう言う訳かそのとき自分に対しては全く手加減がなかったようだ。自分もいい気になって根拠もなく「オレは大丈夫だ」と信じていたので、体中の毛穴から大量の発汗が押さえきれないにもかかわらず、努めて平静を装っていたが、どうにも我慢の限界がやってきて、「水は絶対飲むな!」の忠告を無視して、テーブルの上に無造作に置かれた水をガブガブ飲んでしまった。普通ネパールにやってきた外国人の場合、飲み水は必ずミネラルウォータを買うか、或いはきちんと煮沸したものでなければ危なくて飲めない。単純に下痢で済めばまだ可愛いほうだが、赤痢やコレラ、運が悪いとA型肝炎に感染する危険が大きい。

 自分はまた根拠もなく「オレは大丈夫だ!」と決めていたから、生水を一度飲んでしまったら妙な自信がついてしまい、その後も至る所まるで日本で水道水を飲むように、全く遠慮なく生水を飲み続けた。   

その後の恐ろしい結末は …..to be continued

はじめてのネパール(26年前のお話) その2

画像 024 

  タメルの北からトリスリ・バザールへの乗合パスが出る。モハン・タクリという名のガイドと一緒にパスに乗り込んだが、彼の席はなく仕方ないので屋根の上に乗ると言う。唯一頼りのガイドが傍に居ないのは不安だったが、やむを得ず出発。

 がたがたの峠道カカニの丘を越えて行く。パスはやがて当たり前のように故障し、ストップしたが、乗客は降りて歩く人、ぼけっと修理を待つ人など、別に特別なことではないようだった。

  ・・・しかし私は焦った。ガイドの姿が見えないのである。

 「騙された!」 やっぱり!

絶望的な気分で今後のことを考えるが、パニックとなった頭の中では何の考えも浮かばず、走り出したパスの中で泣き出しそうな気持ちのまま終点であるトリスリバザールに到着した。

トリスリバザールは結構大きな町だ。

パスを降りた私は絶望的な気分のまま、これからどうやってカトマンズへ引き返そうか、と言う事だけで頭の中がいっぱいだった。もともと小心者なので、こういう局面では気持ちが自然とネガティブな方向へ進んでしまう。

 自分のまわりには訳の分からない色んな人々がせわしなく行き交い、自分の存在はまったく無視されている反面、時々好奇の自に晒されたりする。

 そこに自分の居場所はなく、しばらく立ち尽くしたまま呆然としていたら、・・・

  不意にモハンが現れた。彼には全然悪気は無いみたいだが、しかし自分はほっとするやら、腹立たしいやらで「何処に居たんだ?困るではないか!」という意味の事を貧弱な英語で詰め寄った、つもりだったが、彼は意に介さず何やら誰かと談笑している。

 訳のわからないまま、いよいよトレッキングの始まりだ。

 カトマンズの喧騒は無意識に自分を緊張状態の中に追い込めていたが、ここトリスリバザールはのどかな農村の雰囲気に満ちている。村を出てぶらぶら歩き出すと、1月というのに暑いくらいの日差しも手伝って、気分は晴れ晴れとしてくる。

 今ではこのトリスリバザールから歩き始めるトレッカーはほとんど皆無だろう。

 なぜなら当時、徒歩で丸2日分の行程を、今なら数時間、車の移動で済むからだ。当時も車道は存在したが乗合パスの類は少なく、ランタン・トレッキングの歩き出しはトリスリバザールが常識であった。 (HAYA)    

                             ⇒懲りずに、つづく