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昔昔の4駆乗りの独り言

『昭和32年、全国初の動く保健所、北海道標茶保健所』

 40年前、北海道の道東で活躍していた仕事人たちがいた。
北海道標茶保健所の開拓地集団検診実施チームと標茶町役場教育委員会だ。当時の保健所ドライバー兼検診員から話を聞く機会があった。
  道と呼べる道はなく、4駆は町に3台しかなかった。保健所が所有するトヨタジープ(実際にはトヨタランドクルーザーFJ−25)と役場が所有する三菱ジープそして町立国保病院の三菱指揮官車だ。
共同事業の必然性があった、1台では道東の原野に太刀打ちできない。3台で行こう。
保健所のトヨタジープにはエックス線機械と発電機、技術者、栄養士、保健婦、三菱ジープには教育委員会の指導主事と発電機に映写機械、三菱指揮官車には往診の医師と看護婦、薬剤師。
 昭和30年代の道東には縦割り行政などとは言っていられない苛酷な大自然と、自分たちの到着を待つ開拓地の人たちがいた。
期日には絶対に集合場所である分校に到着しなければならない。なぜなら、分校20キロ圏からその日、その時間に皆が歩いて集まるからだ。だからこそ自分たちは道がないとか、橋がないとか、車が埋まったとかそんなことで遅れるわけにはいかないと思っていた。
分校に彼らの宿泊施設があるわけではない、集まる人々は乳飲み子と年寄りを連れて日帰りしなければならない。遅れることは出来ないと強く思っていた。
 しかし根釧原野の表土は湿原に代表されるように柔らかく腰がない。一度駈っちゃくと膝までぬかる泥濘地だ、容易には脱出できない。
ジャッキをかけ四輪にチェーンを装着する。たった3台でのコンボイは荒行のようだった。
 仮橋が落ちている。「河に下りて渡河しよう、土木工事だ。」スコップ、鍬で路肩を崩しアプローチラインを造り対岸に渡り同じようにディパーチャーラインを造成する。
ファンベルトをはずし慎重に渡河する。
数百メートル行くとまた橋が落ちている。
「橋を作ろう。」大工道具一式はいつでも積んでいる、鋸と斧で大きな倒木を4本切り出し、2本を組にして8番線の針金で縛る。 二股の太い木を切り出し桁にする。
すべての資機材を下ろし対岸に渡す、車はレールのような急ごしらえの橋をゆっくりゆっくり渡る。
エックス線技師も医師も看護婦も栄養士も保健婦も指導主事も皆泥だらけで対岸で待つ。
 そして分校に到着するが、到着が目的ではない。そこで本来の業務が始まるのだ。
健康診断、栄養衛生指導、社会教育、診察と投薬。
業務が一段落すると開拓地の女将さんたちが心づくしのそばをご馳走してくれた、美味かった。そんな毎日だった。
へとへとだったが使命感と達成感があり仕事の手ごたえが確かにあった。
検診キャラバンは一度出ると一週間の日程だ。後半の日程はどうしても遅れがちになる。
しかし検診を受ける人たちは文句も言わず待ち続けてくれた。ありがたかった。
(そんな人々の中に、確か女優の高橋恵子(関根恵子)さんの幼い姿があったように思う。思い違いかもしれないが。TVで彼女を見かけると決まって分校を思い出す。)
当時の仲間たちとは40年経った今でも年賀状のやり取りがあり、当時の苛酷な根釧原野を共有した戦友のような存在と思う。
 今、その道はアスファルトとなり川には立派な橋が架かっている。
電気があり、城と見まがうばかりのサイロが立ち並び、スクールバスが走っていた。
僅か40年前、同じ場所で橋を手作りしていたことが夢のように思う。
街を走る4駆を見て、ウインチにデフロック、大型トラックのようなタイヤにフォグランプ、当時存在していればと想像することもある。
しかし当時のトヨタジープや三菱は今の最高級の4駆よりもっともっと価値があったように思う。」
「4駆が4駆として最も必要とされ信頼され、そして光り輝いていた時代だと思う。」




『4駆完敗!動く保健所、根釧原野に立ち往生』


  「さすがの4駆も一度だけ、完敗を喫したことがある。それまでは事前準備として土木工事道具一式・大工道具一式と装備も充実させ、万が一に備えての燃料そして複数車での行動計画と常に万全の態勢で臨み、苦労はしたが何とか独力で根釧原野を突破していた。
 ある年、集団検診の日程も決まり他の行政との調整も済み「さあ!」というときに、事情により町立病院が不参加となった。これはコンボイを組むうちの一台、三菱指揮官車の欠落を意味した。3台のうち一台減、33%の戦力ダウンである。もし戦場であれば撤退を決断する数値である。
  しかし集団検診の事業計画は既に組まれた。役場と実行計画を練り直しているとき追い討ちが来た。「役場不参加!」 若者言葉を借りれば「ウッソー!」である。
役場の担当者は挑むべき原野を熟知したベテランであり、申し訳なさそうに「保健所さん一台では不可能だ、事業計画を変更しよう」と助言してくれた。
  しかし保健所は北海道庁保健環境部が親分である。 いうなれば道議会決定に基く知事命令である。病院の都合も役場の都合も関係ない。
根釧原野の現場では行政が横断的に機能し、協力関係が構築されていたが札幌はやっぱり縦割りだった。
そして最も重要なことはこの『動く保健所』を考え出し、道から予算を取り実行し、開拓地の保健衛生環境を劇的に改善させた当時の坂井田保健所長の存在があった。
保健所職員も実効性が上がり始めたこの事業に熱くなっていたし起案者の所長に男気も感じていた。
チームのメンバーも「既に公示されている。やろう。」と一丸となった。
いつもより入念な準備が進められた。
しかしあいにく天候は思わしくなかった。連日の雨、根釧原野特有の濃霧、コンディションは日ごとに劣悪を極めつつあった。
 実行当日、いつものメンバーで出発した。
20分も経たぬ内に一回目のスタック。始まりだった。
冬の間凍結していた表土は解け始め、連日の雨で中間層まで水分が浸透していた。粘土質のぬかるみは底なしを呈し、文字通り牛歩を強いられながらの前進だった。
何度目かのスタックで完全に進退が窮まった。持てるすべてを出し切った。粘土はデフもシャシーも呑み込んでバンパーまで呑み込むところだ。
完全にお手上げとなった。引き出してくれる僚車もなく気力も体力も尽きはじめていた。初めての敗北を感じ始めていた。
 そんな時、開拓農家の方が通りかかった。馬を引いている。
彼は通りがかりに一言『どれ、引っ張ってやるか。』
牽引ロープを馬に掛け、手綱を引いた。馬の足は膝までぬかっていたが確実に一歩一歩を刻み始める。2トン超の車体がヌルヌル・ズルズルと簡単に引き出され始めた。
これが本物の四駆だと思い知らされた。そのときの気持ちははっきりと覚えている。
当時100馬力の謳い文句で導入された四駆車が僅か1馬力の農耕馬にかなわなかったことを。



(写真はトヨタランドクルーザーFJ-25とバイクはトーハツ175cc)



・・・ 続く
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