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RUSSIA SECTION

【ノマド|ロシアセクション】

旅のコラム

札幌・ノボシビルスク友好交流協会

2011.06.05

札幌・ノボシビルスク友好交流協会会長 千葉裕子様/シベリア通信~No.27~

日本あれこれ

イリーナ・セルゲイブナ・シュクリーナ氏
経歴:ノボシビルスク国立総合大学東洋学科卒業。
ノボシビルスク市立文化センター シベリア・北海道 勤務
現在(財)札幌国際プラザ勤務

困ったこと

例えば住んでいるマンション。ロシアは集中暖房で暖かいが札幌の今のマンションは寒い。帰宅するとコートのまま部屋が暖まるまで10分ほど待つことになる。また、経験がなかったのでガスの使用が恐怖であった。

驚いたこと

非常に驚いたのは女子学生の冬の制服の生足(なまあし)。ノボでも若い人は短いスカートではあるが~~。叉、不思議であったのはマンション全体としての動物飼育禁止。ロシアでは考えられない。札幌はノボシビルスクに似ていて町が広い。ホームシックには罹らなかった。

しかし、旅行で大阪に着いたときの驚き。バスや自動車が旧都の道幅通りの狭い所を神業のように運転していくこと。例えば清水寺の坂道のバスでは運転手さんは神様のように見えた。ロシアの運転手には無理であろう。また、日本では交通ルールをきちんと守っている。

母の驚き

今年、母が日本に来て一週間は広島まで旅行をして、一週間は札幌に滞在した。母の感想では日本はマンションではなく一軒家の国である。しかし、どうして線路近くに家が建って電車が窓の近くを走るのか分からない。電車で軒の近くを通る時、びっくりして写真を撮らされた。それでも日本は快適な街であり、住みやすい。地下鉄にはエレベータもあるし。土地をうまく使っている。しかも計画的である。

お手洗い談義

サニタリーにボタンが沢山付き、しかも暖かい。しかし、ボタンの使い方はロシア人には複雑である。失敗談として、ロシアの若い女性がお手洗いの沢山のボタンを押して水を浴びた。慌てて全部のボタンを押したのでまたまた“水浸し”。 彼女の笑いは止まらなかった。もう一回お手洗いロシアでは町の中に日本ほどお手洗いはない。日本人がロシアに来た時は出かける前にお手洗いの計画をたてないといけない。日本では桜を見に山に行っても、山の中にすら道路にお手洗いがある。日本では細かいところにおもてなしや気遣いがある。もうひとつ、日本の特徴であろうが、あちらこちらに説明書きがある。しかし、あまりにも説明に頼ると困ると思う。自分としては、最近は説明を読む前に周りを見回すこと。自分で考えること。としている。ロシア人から考えるとお手洗いの説明はいらないでしょう。

日本の電車と時刻表

日本では電車で何処へでも行かれる。 本州ではJRだけでなく、色々な私鉄があり、全て時間通りに動いている。地下鉄も時間通りに運行されている。ノボシビルスクでも時間通りに動くが、例えばバスの時刻表は有るが バス停には表示されていない。ノボシビルスクでは、毎日外に出る時は冒険である。JRとか私有鉄道に関して発見があった。私鉄各社とJRとでは軌道が同じではない。災害があったときには融通がつかず勿体無い。これは私の日本の面白い発見であった。

時間を守る国民

日本人は時間を守る人でもある。ロシアでは10分位遅れても遅れではない。日本では遅れた説明が必要である。私の職場では朝礼があり、9時である。目覚まし時計を3つかけていてそれでも寝坊することはあるが遅れたことは無い。ギリギリで遅れそうになったら総務課の時計は2分早いと思うことにしている。

お土産について、そして旅先でのグルメ

日本ではお土産の意識がロシアとは違う。ロシアではお土産を職場のみんなに配らない。日本はどこかに行ったら一個ずつなにかを差し上げるが、ロシアではお土産というのは食べ物ではない。実際に使えるものか、記念になるもの。飾り物なら日本のイメージのあるもの。伝統文化の物とかハイテク、アニメと漫画。両国の子ども達には相手国のイメージが無いから、そういう物で情報を与えないといけない。旅行に出ても、私には食べる時間が勿体無い。日本人は食べることを大切にしている。従って各地には名産品という食物があるがロシアにはない。

日常生活での食料品

シベリアでは主食はジャガイモと言える。料理番組は日本ほどには多くない。日本で面白いのは「美味しい」と「甘い」は同じ意味のようである。お肉もTVで「甘くて美味しい」とは??? 食パンは甘いし林檎はすべてが甘い。ロシアでは林檎は少し酸っぱい。最近のニュースから。ロシアでは生肉は食べない。北方では現地の人は食べるが、冬季間の冷凍食品である。しかし、日本ではレストランで食べると言うので吃驚した。しかも子どもに食べさせるのは極めて無責任。肉はよく焼いて、中が赤いというのは食べない。食べ物といえばロシアでもフライは食べる。しかし、ピロシキは焼く。なま物としては日本の魚は別問題。

ロシアといえばウオトカ? 外食文化

ウオトカを今はあまり飲まないし、女性で飲む人は少ない。飲んでもほんのちょっとだけ。ロシアでは外食文化は日本ほどではない。普通若い人が集まるのは家の中で、居酒屋も飲み放題も無い。これをロシアで説明するのは非常に難しい。家の中で飲むから、酔っ払った状態で電車に乗って帰宅する人は余り無い。従って路上では酔っ払いを余り見かけない。

軽業かしら?? 日本の携帯

日本ではハイテクやいろいろな技術が進んでいて、携帯に夢中になっている人が多い。自転車に乗って、傘をさして、携帯を使う。神業としか言いようが無い。

終わりに

日本人は災害に対して強いと思う。今回の地震でもパニックにならないで、それを乗り越えて生きていこうとしているのは本当に素晴らしい。ご静聴有難うございました。

父のこと

高橋 慶子 氏

 自己紹介から 東京女子大の哲学科を卒業。その後、出版の世界で校正に20年間位を楽しんだ。また、国立高等工業専門学校で32年間ぐらい日本語を教えて、生涯現役と考えていて現在はフリーの校正者。

父はロシア語とロシアを大変愛していた。外交官として当初はウラジオストク勤務。その後、ノボシビルスク。新婚旅行は上海。昭和19年にモスクワ派遣。その後、満州国の新京の領事館。終戦で新京から抑留されて、逮捕。11年間の抑留生活。お父上のご本を紹介しながら、その「ソ連監獄日記」によると25年の禁固刑を言い渡された。一般の若い抑留者は4、5年で帰された。父は新京から10日間を鉄道でモスクワに送られた。幸いに一人ではなく、ルビヤンカ(GPUの本部)に入れられた。生きては帰られない監獄であった。護送車に乗せられた時、空咳で隣人が連絡。車は道路をぐるぐる回って、8階建ての大きな建物のGPU(国家政治保安部)に入った。監房に入り口はあるが、出口は無い。部屋は横1メートル、縦3メートル。窓なし。24時間裸電球が点り、昼夜は分からない。朝は黒パンとお粥。昼はスープとお粥。夜はジャガ芋のピューレ。最初のキャベツのスープは旨かった。二度目からは旨くなかった。キャベツの塩漬けに水を加えて酸っぱいだけ。お粥は大麦か燕麦に塩プラス。監房は熱風暖房。寒暖の差が激しい。次にレボルトヨシンカンに移動。プリンス近衛文隆も居られた。尋問の時の様子は監房から出されて階段を下りる。囚人同士が顔を合わせないように一方を壁に向けて立たせる。食事は45cm四方の給食窓から貰う。「スパイだ。白状せよ」と強要されて、作戦を練った。父には通訳がついたが余りにも下手なので、自分からロシア語で語った。胸倉をつかまれピストルを突きつけられて。ということもあり、女性のヒーヒーと泣く声も聞こえた。背中を出されて鞭で叩かれる音も聞こえた。断食を決心して水だけを飲んだが、やがて椅子から転げ落ちるほどになって見つかってしまった。拷問は取り調べ長官の許可が必要。一日中飯も与えないで壁に向かって立たせておき、昼夜尋問を行って眠らせない。精神的に巧妙に朦朧とさせて、尋問官の思い通りにする。殴る。裸にして寝かせ硬いゴムの棒で背中を殴る。10回も殴られると意識を失うので、水をかけてまた尋問する。冷たい水の中に長時間入れておく。電気で拷問。ドイツ人も拷問を受けた。スターリンに恨まれたコルホーズの人達もいた。大学教授もぶち込まれた。大学仲間に党員もいたし、学生の中にGPUの回し者がいた。新聞は読めた。スターリンが死んだことも分かった。その後、食べ物は良くなった。昭和29年頃から日本と通信が出来るようになった。インクは紫色で。居場所は分からないようになっていた。送ったシャンプー等も届かなかった。ここで、戦争論を書いている私の大学の先輩、川中なおこ子氏は「人間は欲が深いから戦争はなくならない」と書いている。父は「人種問題、民族問題が関って戦争を生み出す。そこに何かがあるのだろう」と書いている。父も劣悪な牢獄にいて帰国したが、母が教師をして自分と姉を育ててくれた。父は最後から2番目の引揚げ船で帰国。精神的に過敏になっていた。外務省に8年間復帰して本を書いた。退職したら原稿生活を送る予定にしていたが亡くなった。父との生活は、家族にはたまったものではなかった。体調が悪いと母に対しては八つ当たり。病院から退院してからも自己中心。独房生活と病気、そして飢えが彼をそうさせていた。感情の起伏が激しくなり、親類の病院で亡くなった。11年間の囚われの日々が心筋梗塞を呼び。暗澹と憂鬱と誰にも理解されず、喪失感のなかで死んだ。「戦争の犠牲者であった。と思う」と母が書いていた。

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