旅行代理店ノマドのサハリン旅行を中心としたロシア専門部門「ロシア・セクション」

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RUSSIA SECTION

【ノマド|ロシアセクション】

旅のコラム

第21話 専 門 家(下)

2007.03.01

このとき初めて、ウラルなる超大型のトラックに乗った。ボンネットまでの高さが2m近くある。ドライバーの目線の高さは2m60cmを超えるだろう。「こんな車でどこに行くんだ?」と正直不安になった。丸一日北上した。不安は的中する。道は続いているのだが橋がない。
6月の中旬だったが川は増水し川幅は50mを超えている。水深を測る術など毛頭ない。しかしドライバーは躊躇なくいきなり突っ込む。水面がボンネットを越え、ドアの隙間からは水が噴出し足首をぬらす。流木が車体に当たり鈍い音を立てる。
「観光開発のための助言?大嘘である。間違いなく片道切符のエクスペディションである。」 私は訊いた「水深も測らずに突っ込んでいいのか?」
ドライバーは言った「このあたりの川は川幅と水深が比例している。我々はそのデータを持っている。問題ない。」
私は「ほー。」と納得してしまった。確かに彼は専門家の一人だった。
その日ついた所は海岸線からかなり内陸に入った小さな村。集落と言っていいだろう。

村人は驚くほどに日本人にそっくり。建物の屋根がもし茅葺だったら「日本の山村です。」と言っても違和感が無いほどに心落ち着く佇まいの村だった。ほんの一瞬和らいだ空気を吸ったが、そこまでだった。ここがスタート地点だった。20Kg近い荷を背負い川沿いに歩き始める。蚊・虻・蚋の間断ない攻撃にさらされながら意味もわからずひたすら歩く。誰もしゃべらない。時折小休止があるが集まって談笑するわけでもなく森の中に適当に散らばっている。昼食も皆立ったままで缶詰を食べる。夕食も缶詰、トッピングは蚊。シュラフはキャンバス地のようなコットン仕立てに紐仕様、シーツを入れてしかも靴を履いたままで眠る。押し寄せる蚊を防ぐためにシーツは頭から被る。図らずも100年前のアルセーニエフの追体験となる。
そこでシュラフの中ではたと気が付いた。「も、も、もしかすると沿海州政府はこの行軍を旅行商品と考えてるんでないかい??」。
州政府でのやり取りを思い出していた、、、「アルセーニエフの足跡を訪ねて。」・・・。
思うにキャスティングは完璧だ。(カピタンもオリエンティエフも居る)小道具も申し分ない。
私はシホテアリン山脈のど真ん中で完璧に悟った。
到着した村が「デルスの子孫が暮らす村」そこから辿ったルートが「アルセーニエフの足跡を訪ねて。」そうなると明日は、、、、あや~!?「・・・・デルス・ウザーラの道~!?」
タイガの専門家たちはすでに眠りの中にいた。私は孤独だった、、。

案の定、翌日も行軍だった。朝食は暖かい食事(やっぱり缶詰)に紅茶が出たので少々うれしかったが手加減なしの移動はキツカッタ。「日本代表」と言われての山行でもあったのでかなり涼しい顔して見栄張って頑張ったが、ロシア製の軍靴は騙せなかった。靴擦れのお土産をもらった。こんな楽しいハイキングがその後2日ほど続いたが記念碑があるわけでも顕彰碑があるわけでもなかった。ロシアの「観・光・資・源」と「専・門・家」の奥の深さを再認識し街場へ戻った。4日間だった。

悔やまれてならない。あの会談の冒頭に何故アルセーニエフなどと口走ってしまったのか、何故、デルスウザーラを口にしてしまったのか、、、、。
あの時「酒はうまいし美人ばかりの沿海州!」と応えていれば、多分全く違った専門家と訪問地が用意されていたのではなかったのか、、今更ながらに悔やまれてならない。
当時の私は若かった。
かたや屈強なロシア陸軍兵士。こなたレースクイーンばりのロシア美人。その差に思いを馳せる時、今でも奥歯が軋む。

今、私は少し大人になった。断言する。
今度の事前調査はゼッタイににハズさない。

後日談:
何年か後に別の案件で訪ロした時、アルセーニエフの住んでいた家とデルスの記念碑に案内された。当時を振り返って独り言を言っていた「最初っからここに案内せいよっ!」
「デルスの子孫が暮らす村」は何年も経ってから商品化できた。しかし「アルセーニエフの足跡~。」と「デルスの道~。」はいまだ商品化できずにいる。しかし、このときの経験はその後のいろんな調査グループのコーディネートの際にとても役立った。ちょっと儲かった。人間何が幸いするかわからない。

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