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【ノマド|ロシアセクション】

旅のコラム

札幌・ノボシビルスク友好交流協会

2009.08.04

札幌・ノボシビルスク友好交流協会会長 千葉裕子様/シベリア通信~No.13~

 約二ヵ月半の日本滞在の後、12月25日に当地に到着した。この直後から当地では長い正月休暇に入った。新年の始業初めは1月11日の日曜日であった。本来は9日からなのだが9日が金曜日であったのでこの日を休みとして11日からの日曜日出勤となった。かなり合理的な判断だったと思う。昨年、新年の豪華な花火の宴を「シベリア通信」で紹介したが、さすがに本年の花火の打ち上げ量はその半分ほどだった。そしてまた、近隣の静かだったこと。町中が喪に服しているようにも思えた。
 私の出勤は12日からだったが、この日、私のコンピュータは動かなかった。いつも国が変わるたびに彼はストライキを起こす。なにが気に入らないのだろう?。
 器械の回復を待ってこの記事を書いている。少々発行が遅れそうな気がしている。

世界恐慌が~~

 12月25日、当地到着後、その夕方、早速スーパーに買出しに出かけた。本来の野次馬根性から「物価は如何なものか」と出かけた。確かに1,2ルーブル単位で食料品は値上がりしていた。人参、じゃがいも、玉ねぎなどの貯蔵野菜の値上がり率は微小である。テレビの報道によると12月の値上げ率は18%ということであったが、私はそこまでは感じなかった。鮭の切り身も、蜂蜜も、ソーセージも10月の値段と大きな差異はなかった。卵が10ルーブルほど、乳製品が5ルーブルほどの値上がりか。
 しかし、1月17日からの日本語講座の開始から、なにかが見えてきた。先ず、若い学習者の会社員たちは一月から「金曜日は出社に及ばず」と言われたという。簡単に言うと出勤日が減って給料の20%削減と云うことである。「あなた達どうするの?」と聞くと、声をそろえて「休息をしようじゃないか」と笑った。
 中年の会社員は正社員から時給のアルバイト待遇になった人もいる。また、ウラジオストクに本店を持つ銀行は年末に人員整理をしてノボシビルスクの支店を閉店した。銀行が必要とする幾人かが本社転勤となった。若い行員たちは昨日まで高給取りでガールフレンドに囲まれていたのに。家族持ちは住居費も支給されて良いアパートに入っていたのに。「明日からの出勤には及ばず」と言われてオワリ。転勤を言い渡されて2メートル近い背たけの青年は、生まれて初めて、大学までノボシビルスク居たのに、今更転勤とは、親兄弟と離れるのが寂しいとさめざめと泣いたという。
 テレビでは連日失業率を報道し、日常物価の上昇率を伝えている。また、世界の都市のデモ行進や暴動が大きく報道されているが、ロシアにはその兆しもなく、老いも若きも耐えている。
 ある日、エンゲル係数が40%という報道があり、耳をそばだてたが「さもありなん。年金者が少ない年金から住居関連費を払ったら40%しか食料品費としては残らないのだから」彼達はこう云う「一箇月の内、20日間分の食料品費しか残らない。それもパンと牛乳と卵代だ」。残りの10日間は???。そして、また、年金は旧来どおりで、まだ上がっていない。12月からは住居関連費も値上がりしたという。それでも、それでも静かな国民である。私が住んでいるアパートがどうも寒い。持参したホッカイロを連日使用しながら春を待っている。
しかし、今までの暑くて仕方のなかった過剰暖房供給よりは理屈が合っていて協力すべしと自分に言い聞かせている。寒さになんとか耐えられるのは昨年に比べると非常な暖冬である所為かもしれない。
 さて、本題にはいる。これもテレビからの受け売りである。シベリアに住む私にロシア経済を語る力があろうはずもなく。お許しを頂きたい。
ロシア経済発展省のナビブリナ大臣によると「昨年、国家予算を決めるとき輸出の原油価格を1バレル82$で計算したが、今後は39$まで下がるだろう」と。私でも理解出来たのは国家の歳入が半分になるというのは、歳出も半分になるということであり、これは当然、州、市町村にも及ぶ事である。
 事実、今年のノボ市役所の予算は窮屈この上もなく、市役所からは人件費と水道光熱費等の経費のみの予算編成ある。という。センターで言うと、多くのアルバイト要員への支払い、日常の消耗品その他は自力で搾り出さなければならない。私達職員は今、新しい収入の道を模索して居る。なんとかなるであろうが~~。

毛皮泥棒

 昨年末、暮れの押し迫った日にノボシビルスクの中心街の毛皮屋に集団の泥棒が入った。店内の警備カメラが押し入った4,5人の彼らの侵入から退去までを映し出した。初めに一人の若者が夕刻入店、店内を見渡して退去。やがて閉店、そして泥棒の侵入と相成った。全員黒い服装で目だし帽をかぶっている。彼らは侵入するや否や、ハンガー毎滑らせて毛皮を抱えあげる。その下に大きく口を開けた袋があり、そこへ滑り落とす。犯行時間15分。3個のふくらんだ袋を床の上を滑らせて彼たちはやすやすと逃亡した。被害枚数47着。15分というのは、警報装置が動いてガード゙マンが駆けつけるまでの時間であった。
そしてまた、この一時間後にもう一軒の毛皮ショップにも泥棒が侵入した。と、TV放送は付け加えた。警備保障会社への信頼度はいかほどのものかと私は考え込んだ。市の繁華街の毛皮屋での災難あった。

シベリアのピアノの件

 先に、私はセンターにあるヤマハのピアノについて書いた。その後の報告である。
 このピアノ。実際に図体が大きいのに調子の狂った干からびた音しか出さない。センターのお邪魔虫なのである。早くから、終戦後、日本人抑留者が運んできたものと伝えられていた。いつかはこのピアノの由来を書かねばならない。私の仕事かも知れないと私は思い込んでいた。
 このピアノの素姓は:ヤマハ№21679~~製造ナンバーであろう。
 ロシア文字で:1947・3~~ロシアに手渡された日時であろう。
 これ以外には何も無い。
 しかし、ある日、私に素晴らしい助っ人が現れた。私の所属する短歌誌に高橋慶子氏がいて。昨年、彼女の父上である高橋清四郎氏の書かれた「ソ連監獄日記-免罪政治囚・日本外交官の獄中ノート」を拝読した。父上が残された日記を高橋氏が丹念に纏められたもので、当初、このタイトルに私は怖気づいたが、心の何処かで「読まねばならない」という囁きが聞こえた。
 氏の父上は外交官として満州からモスクワに移送されて、不遇な日々を過ごされたのであった。高橋氏一家にはロシア、シベリアというのは鬼門であったであろう。私は高橋慶子氏に面識がなかったのだが、この話を持ちだしてみた。彼女は早速興味を示し、かつ、私より熱心に調査を開始して下さった。「もしかして、私の父がそのピアノを聞いたかもしれない」という思いからであったと言う。
 なんと、父上の外交官としての初めての赴任地が当時の在ノボシビルスク日本領事館であったという。当地に日本領事館があったというのは私も聞いていたが、私のテリトリーにこんな大きな情報がもたらされた事に私は感謝した。
 早速の彼女の調査で、
1・在ノボシビルスク日本総領事館は大正14年8月に開設
2・昭和12年、在留邦人が居ないので閉館
3・領事館の財産は在チタ満州国領事館に売却。その折、このピアノが含まれていたかどう
  かは外務省に資料が残っていないので不明。
4・その当時、ヤマハの支店が大連、奉天,ハルビンにあったようである。
 一方、私の話を聞いた私の勤務先のスピリドノフ館長の話では、当時、ノボシビルスク東方300㌔程の所にマリンスカヤという集落があり、日本人たちが収容されていた。そこの守衛のロシア人が親切な人で、身内にこのピアノの由来を話し、彼の死後2年後に当地に齎されたものである。という。
 この件、深追いをしたい所だが、館長の話しで納得がいきそうである。ただし、日本人のどなたたちがこの重たいものをマリンスカヤまで運び、どなたが弾いたものであるか。今はご高齢になられた当時のシベリア抑留者のどなたかの記憶の糸を辿らせてほしいものである。私があえて捕虜と書きたくないのは、戦後の日本の歴史が語っているもので、シベリアで亡くなられた6万人の日本人への追悼の気持ちからである。

住み替え事情

 私の親しい友人が、旧居を売却して市の中心部に引越しした。引っ越したアパートはかつてのものの半分の広さであるが、なかなか住み心地が良さそうだ。内部改造に5ヶ月をかけての新築同然のものとなった。
私がいたく関心を持ったのは「なんでもある、ある」と友人のおばあちゃん達がよく言っていたのだが、本当に当地にはなんでもあった(ウオッシュレットのセット以外は)。室内からエレベータの乗り降りを監視することの出来る広角レンズの安全装置もあり、子供がアパート内に入ってからの安全確認も出来るようになった。
 今の私のアパートは古いから、ドーム入り口の呼び出しベル。それから自宅入り口のベルが鳴ったりすると身を固くしてその人の退散を待つしかない。個人的な要件でなければ、例えば選挙運動員であったりしたら、彼はすべての部屋の呼び鈴を立て続けに鳴らすから、向かいのナージャさんが自室のドアを開けて喉が張り裂けるような大声で叫んでくれる「だれですかー」と。これが私の安全装置である。
 話をもどすと、友人宅の家具の大方は室内改造に伴い、ウオーキングクロゼットにしたり、お勝手はきっちりと測ってすべて作りつけにしたりで無駄がない。「日本だってそうじゃないか」と言われるが、この特別仕様には日本では高額のお金がかかる。ここでは腕利きの職人がいるから、発注者と彼との話し合いで、どうとも出来るのである。シベリアに住んで初めて近代化された住居に出会えた。
 友人の今回の住み替えはタッチの差で成功した。新居購入契約が6月。旧居売却が7月。世界恐慌の波がシベリアに押し寄せる直前のことで、これが9月に入ってからでは旧居売却は不可能であったであろう。現在、市民は現金保有に必死で、銀行では毎朝ドル買いの人で賑わい、ドル、ユーロは午前中で売り切れている。市民達は固定資産購入を差し控えて、現金のタンス預金をドルに換えて保全をはかっている。住宅販売が急激に減少中とニュースも伝えている。友人のように人生はなかなか上手くいくものでは無い。時期を見る目が良かったのだろう。彼らの決定と行動の早さを見て感じた。
 住み替えによって、彼らの市に払う住宅関連諸経費(水道、下水道、温水、アパートの維持管理費~~これらは面積と家族の人数で自動的に計算されている)が半減したし、子供の送り迎えに毎日2回、両親のどちらかが仕事場から往復する手数も省けた。10歳の少年に「学校まで何分?」と聞くと「普通は10分。ゆっくりだと15分」ときた。この5分はオペラ劇場の前庭で遊ぶのであろう。住宅がオペラ劇場の真横のドームなので、住人の大方は劇場関係者の芸術家たちで、年金生活者が多いと言う。彼らは今でもエリートだが、ソ連時代はアパートの内部のあり様から見てもエリートだったのだろう。少し、不便になったのは父親の通勤が地下鉄になったことであろう。しかし、毎日の送り迎えのガソリン料金を考えると、これもマイナスではなさそうだ。買い替えによってはじき出された高額の剰余金については聞かなかった。

私の給料

 昨年の急な長期帰国で、私には大変な不満があった。しかし、災い転じて福となった。今回、非常に難しい労働ビザ発行権をセンターは取得した。従って私は正式な職員として滞在している。と言っても私の事務手続きは継続中で、厚さがなんセンチになるか分からないが、今もって人事係が書類を提出中である。その中で、私の初めての給料が振り込まれた。給料の支出部門はセンター負担と州政府負担の二口に分かれていて、それぞれの支給日が異なる。二口に分けられて振り込まれてその合計が一ヶ月の給料額となる。これは私だけではない。市役所職員全員である。しかもロシア人の長い夏休みも、有給とは言え減額される。給料支給が一箇所からではない。と云うことは提出書類がそれぞれ職員個人個人に対応して、異なる書式で二箇所に提出されることになる。これに関わる人件費やシステム利用回数も2倍となるであろう。私はセンターのこの小さな事業体に会計係二人がいるのを今回理解した。一人は会計部長と呼ばれている。そして、この国の役所の機構改革も絶対必要である。と私は拳を振り上げたくなった。私が正義の味方だからではない。何事にも人手と時間がかかり過ぎるからである。
私の銀行カード作成にも2回銀行に出向いた。興味を持ったのは私の税金である。ロシア国民は累進課税でないので一律に13%の税金を支払っている。私には外国人として30%の課税である。ただし、年金は引かれなかった。

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