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【ノマド|ロシアセクション】

旅のコラム

札幌・ノボシビルスク友好交流協会

2011.02.17

札幌・ノボシビルスク友好交流協会会長 千葉裕子様/シベリア通信~No.25~

 18世紀前半まで日本はロシアに先んじて北方四島を発見、調査し、遅くとも19世紀初めには四島の実効支配を確立、19世紀前半にはロシア側もウルップ島を自国の南限としていました。四島のロシア人から「日本が地図を作る前に○○探検家が行って地図を作った」との主張もありましたが、1850年に日露通好条約が下田で締結されております。それまでに特段の争いも無く、平和的に確立されていた択捉島とウルップ島との間に両国国境を確認し、樺太を、両国が共住することとして取り決めた日露間において初めて締結された条約です。

 これで暫くは特に問題なく経過しましたが、樺太が何となくしっくりしない。他方北方四島は根室から行ったり来たりじゃんじゃんやっている訳でありますから、千島列島の方が日本にとって価値があるのではないかという訳で、特段の争いが無い平和な状況の下で1875年樺太・千島交換条約を締結しています。混住していた樺太は「ロシアさんお使い下さい。その代わり千島列島はシュムシュ島まで全てを日本の領土とする」という樺太とウルップ島以北の千島列島を交換する条約です。
 この後、1905年ポーツマス条約。日本が日露戦争に勝った結果として、樺太の南側を戦利品として下さいと、まさに暴力で勝ち取った戦後処理がポーツマス条約です。

 次が基本になるところで、「第二次世界大戦と領土問題」。特に大西洋憲章(1941年8月)及びカイロ宣言(1943年11月)の領土不拡大の原則です。今まで領土問題というのは有史以来、戦争に勝った方がどんどん領土を拡大するのが当然でしたが、流石に人間は獣ではない、犬畜生ではない。知性・理念に従ってやるべきではないか。だから戦争による領土の拡張は求めない。これが第二次世界大戦における指導原則ということです。この時はルーズベルトとチャーチル(アメリカとイギリス)の両首脳が憲章を作っています。それを具体的にしたのがカイロ宣言。これはルーズベルト、チャーチル、そして蒋介石が入って宣言しています。ここでは日本が暴力及び貪欲で取ったものは返さなければならない。逆に言うと暴力によらず持っていたものは良いと確認したのがカイロ宣言です。第二次世界大戦の処理としては、有史以来の歴史と比べてみると、極めて崇高、高邁な哲学で決めた考え方の宣言であり憲章です。

 この哲学が実際に具体的に盛られたのが1945年7月26日のポツダム宣言です。宣言の中にこの考え方が書かれております。その文章は「日本によって暴力及び貪欲により略取された地域から日本は追い出されなければならない」とした1943年のカイロ宣言の条項は履行されなければならない、と。ここの所が核心となっているのであります。このポツダムでの会談はアメリカのトルーマン、イギリスはチャーチル、そして中国は蒋介石、ソ連のスターリンが参加しています。この時スターリンは参加していましたが、実は日ソ間に不可侵条約があったために、この時点では署名をせず、8月9日にソ連が不可侵条約を破って満州に侵攻してから後、正式にソ連も参加しています。こうして終戦処理に向けた準備がありました。

 そして、まさに8月14日に日本は敗戦を認め、ポツダム宣言の受諾を中立国のスイスを通じ連合国側へ伝え、8月15日には玉音放送で日本国民に知らせました。その時にも日本国内で随分と揉め、玉音放送のレコードを持って町村氏(元北海道知事)が右往左往しながら全国の放送にこぎつけたようです。

 実はこの終戦処理について事前に密約がありました。これが1945年2月のヤルタ協定です。チャーチル、ルーズベルト、スターリンの写真がありますが、この3人が会談して、とにかく日本がこれ以上暴れてしまうとアメリカとしては更に多くの戦死者を出さなければならない。何としてもそれを防ぎたい。ついては「スターリンさんのところは日ソ協定を結んでいるけれども参戦して、早いところ日本を叩いてギブアップさせよう」という話で合意し、勝った時には何処で線を引こうかと決めたわけであります。で、その時ルーズベルトなりチャーチルにはカイロ宣言とか太平洋憲章がきちっと頭にあったのですが、残念ながらスターリンはその認識を持っていなかったと推測されるわけであります。このためソ連は8月9日に条約を破って満州に侵攻してきた。ソ連が一方的に条約を破棄して攻めてきた。けしからんではではないか。その通りだと思います。ただ時は戦争という超おかしな状況になっている訳ですから、こういったことは起きるのではなかろうかと思います。

 8月24日にシュムシュ島占拠となっています。北から来たソ連軍はウルップまで来て戻っております。それからサハリンか沿海州から来た一団は9月4日までに北方四島を略取し、占拠してしまった。要するに日本が8月15日に終戦で完全に無条件降伏しているのに攻めてきた。北方四島に行った時に「この北方四島においてソ連の兵士は血を流して島を勝ち取ったのだ。」という議論がよくされましたが、実際に北方四島では戦闘はありませんでした。最初にソ連軍が上陸した千島列島のシュムシュ島では、日本が降伏しているところにやってきて激しい戦闘となり、双方相当な死傷者を出していますが、実は北方四島そのものでは一滴の血も流れておりません。

 その後サンフランシスコ平和条約が1951年に締結されます。この時ソ連は参加していますが結果的には調印していません。日本は千島列島を放棄しますが、千島列島がどこから何処までかということがきちんと書かれていません。日本側は「もともと北方四島は日本以外何処の国も属さなかった。これは放棄していない。(暴力で勝ち得た領土ではない)」と言うのが基本的な主張です。しかし、ソ連は「そうじゃない」と言って全部持っていくのが当たり前と、このサンフランシスコ条約にはソ連は調印していません。こうして北方四島の領土問題が発生しています。放棄した樺太も、実は国際法的には何処の国にも属さない土地なのです。ソ連が調印しなかった理由には中国が戦争の間に毛沢東中共に変わり、ソ連はこれを認め、米国とイギリスは共産圏の拡大ですから認めず。毛沢東中国は参加していないことでソ連はハンコをつかないで帰ってしまったというのが経過だったようです。

 日ソ共同宣言。1956年9月鳩山首相のときに締結しますが、この時日本は国連に加盟する課題とソ連に抑留されている軍人さん達を急いで帰国させる課題が特に急がれていました。国連加盟の日程が迫る中、ソ連は拒否権を発動して日本の国連加盟を認めない可能性があったので、焦りがあったのではないかと思いますが、北方四島に関しては歯舞、色丹、二島だけで取り敢えずよろしい。後は継続検討しようと言うわけで手を打ったのがこの共同宣言であります。ただ、共同宣言にも条件がついておりまして、ソ連側からの条件は平和条約を締結した後に返還しましょう、と。このため共同宣言の後、日本はアメリカと安保条約を締結しました。そのことによってソ連が怒ってしまって、そんなアメリカと一緒になるんならわしゃ知らん。と、四島を返さない。と、いうことで今まで続いているわけです。あんまりしゃべると私は歴史学者でございませんので,その後色々な変遷をして今の状況がありますが、後から資料を読み直してください。  (つづく)

高垣幸子追悼演奏会のお知らせ

日時:2011年4月10日(日)
場所:札幌市教育文化会館 小ホール(札幌市中央区北1条西13丁目 ℡ 011-271-5821)
チケット:1000円
主催:宮城社 ゆきの会 
当会副会長でありました高垣幸子氏が昨年1月24日に亡くなりまして一年がたちました。お弟子さんたちが協力して亡き先生のご遺徳を偲び、その教えを継承、発展させていくための追悼演奏会であります。会員の皆様のご協力を希望いたします。

本年のノボシビルスク訪問についての予告

千葉が9月初めからノボシビルスクに参ります。この折、一週間の予定で旅行グループを作る企画が具体化しました。現在までの参加予定者は7名が決定しております。
詳細は4月以降でなくては決まりません。出発が確実になりましたら6月下旬から作業が始まります。経費は成田発着で30万円以内でと考えております。
コースはノボシビルスク市滞在に加えてシベリア鉄道を使用してオムスク市訪問一泊を入れます。オムスク市はドストエフスキーが収監された土地であり、その刑務所跡が博物館として残っております。古い市街も残っていて静かなシベリアの街です。
会員の方で、ご希望の方は千葉に囁いてください。

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