●連日好天に恵まれ、夢のような日々でした。ノマドさんのツアーは少人数での催行が多く、とても気に入っています。グループ旅行のように皆が仲良くなれて楽しい旅でした。(大阪府/森様)
●ハイキングコースは変化に富んでいて、人が多くなくてゆったり自然を満喫できました。花の季節で色々な花が楽しめたのも良かったです。ガヴァルニーのホテルは部屋の窓から真正面に大圏谷が見渡せて素晴らしかったです。 (高知県/岡村様)
スペインのアラゴン州、アインサAinsaという町でHostal Apolo Ⅺ というのを見つけた。ホスタルだから安そうなので入ってみる。
1階のBARに入ると、老婆が切り盛りしていて客が3~4名。 お婆さんは、英語を全く理解しない。こっちはスペイン語がスラスラ出ない。お婆さんは構わずスペイン語で捲し立ててくる。 それでもなんとか、今日の宿泊を理解してくれて部屋の鍵もくれた。宿泊料は€25.00くらいのような事を言う。 随分安いが寝るだけだしどうでも良い。パスポートを預かられた。
夕食は隣の(ブッフェ)レストランが21時からオープンするというが、腹が減っているのでそんなに待てない。 まあ、とりあえず部屋に入り寛ぐ。見ればこのホテルの真向かいには美しい岩山が連なっている。 いつの間にか晴れ渡った空の下その山が実に美しい。
部屋が寒いので、ちょうど廊下に居た男性に言うと、何やらヒーターを調整してくれ暖かくしてくれた。お湯かオイルの暖房らしい。
空腹を満たすため一階のBARでまずはCerveza!タパスが並んでいるのでチョリソ、オイルサーディン、トルティージャなどいただく。とっても美味!お婆さんはすでに帰っていて、代わりにご婦人が仕切っている。多分娘さんと思われる彼女は、意外にも英語が達者で大いに助かった。 BARの客はすべて地元民と思われるが8~10人くらいになった。常連客メインでもっている店なのだろう。 勘定は€8.00、テーブルに座ったので€10.00払った。こういう感じでいいのだろうか?なんか、それでいいみたい。 尚、このホテルにはWi-Fi(ウィフィ)があり、パスワードを教えてもらうとスマホでネットを自由に使えた。
17:50 ルルド(フランス、ミディ・ピレネー地方)のやや町はずれ、タルブ方向にある、2つ★ホテルに投宿。やや鳥居みゆき似のお姉さん、まったく英語が通じないがHP(2食付)で1泊€48だそうだ。他を探すのも面倒なのでここにする。カネは前払い。お姉さんは無愛想に見えるが、言えばなんでも面倒を見てくれるので悪い人ではない。
19:20 夕食。部屋の電話がしつこく鳴るので不思議だったが、夕食のお知らせだったようだ。前菜は生キャベツとホタテのグラタン風。メインはビーフ、インゲン、ナスと何かにサイコロ状のフライドポテト付。 デザートはショコラーテ。飲み物はヴァンルージュ(赤ワイン)をDemi(500ml)もらって、食後に金を払おうとしたら、金は要ら ないと言う。どうやらワインは水のように無料で出される物らしい。びっくり!因みにその赤ワインはいわゆるハウスワイン的な軽いやつで、色は薄くライトボディー、味は酸っぱいばかりでコクも無く、要するに 旨くないワインだった。
ところで、フロント付近に“Wi-Fi”というステッカーが貼ってあったので、スマホでネットに接続できる筈だと思った。そこでパスワードを教えてもらうため、お姉さんに「ワイファイのパスワード教えて下さい。」と言った。でも通じない。「ワイファイだよ、ワイファイ!」何度言っても全然ダメ!なーんだ、ステッカーだけの見せかけか。とその時は諦めた。
翌日、ひょんなことから“Wi-Fi”はこの辺りでは、「ワイファイ」ではなく「ウィフィ」と呼ばれている事を知る。うーむ、土地によって発音が違うんだ。世界は広い。
09:45 トゥールーズ空港1階のハーツレンタカーで予約確認書を見せると、「あ、Hertz No.1 Clubのお客様ですね。このまま、外の駐車場にあるあのオフィスへ行って下さい。そうです、あれです。」と言われたので、その事務所へ行った。
中には女性が一人。「あ、お待ちしていました。免許証を拝見します。あそこの列の16番があなたの車です。これがキーです。返却はバルセロナですね。ではお気をつけて行ってらっしゃいませ。」これでオシマイ。なんて簡単なのだろう!車はFordのリッターカー(1000cc)でマニュアル車。ヨーロッパではオートマは珍しいそうだ。生まれて初めての左ハンドル、恐る恐る車を走らせ、まずは一旦ホテルに戻る。
10:30 荷物をまとめチェックアウト。さあ、車で出発だ。と思いきや、バックのシフトが入らないぞ!うーむ、いくらやっても入らない。ギヤが堅いいのか?えいっ!と力を込めて強くやってもだめ。そうやって15分くらい格闘しているうちにヒョンな所でカクンと入った。何だ、これは!今のはどうやったんだ?憶えていない。再度、トライ。そうやってまたしばらく格闘してついに解った!バックギヤはシフトレバーの先端を一度引き上げないと入らないのだ。別に力は要らない。ただ、少し上に引っ張るだけ。なーんだ。しかしこんなの初めてだ。
10:30 地図も無いので適当に車を走らせる。大きな通りに出てハイウェイみたいな道路に入り、Toulouseの標識に従って走る。HWYの勝手が分らず中央車線寄りをトロトロ走ったら後続車にクラクションでどやされた。おお、コワ。たまらずHWYを下りて適当な方へ。そうしているうちにトゥールーズの中心部に紛れ込んでしまった。
「バラ色の街」と言われるように、レンガ造りの建物が多い。一度一方通行を逆走してしまい肝を冷やす。賑やかな日曜の朝 市の前を通り、大学らしい建物の狭い構内へ。 こんなところに用は無い。何とか脱出し、トゥールーズの街を離れるべく走る。
フランスでは、道路標識に“Totutes directions”と書いていればそれは「全方向」の意味だとガイドブックに書いている。なるほど、その通りに進むとどうやら町はずれに出た。そしてあとは行き先の標識に従えば何とかなるだろう。再度、HWYに乗り、今度はさっきと逆方向、Tarbes-Lourdesの方向へ!HWYは制限時速130kmらしいが、そんなに飛ばすと怖いので、せいぜい110kmくらいで右端の車線を走る。
そのおいしいケバブ屋の主人に映画に誘われた。その店で時々主人に頭を引っ叩かれながらも甲斐甲斐しく働いている子供=デッチたちも連れて行ってもらえるとあって、皆、大喜びでした。何しろ映画は山の町では大きな娯楽のひとつです。自分には断る理由もないし、パキスタン映画にも興味があったので喜んで行く事にしました。
ある日の夕方、約束の時間にお店へ行くと、主人は「おお!ジャパニ、来たか!」と言って、デッチたちと一緒に店を出ました。すると、彼はやおら僕の片手を握り出したのです。意味が分らずやや呆然と、彼に手を握られたまま二人並んで通りを歩き映画館へ。当時は男性と(女性とも)手を繋いで歩くと言う行為は僕にはほとんど経験は無く、けっこう恥ずかしい気がしましたが、デッチたちも別段気にする様子は無く、通りの人々も視線を投げては来るけどそれは手を繋いでいることに対してではなく、地元民とジャパニが何やら親しげに歩いていることに少し興味がある、と言う感じのものだった。
そう、パキスタンでは(パキスタンだけと言う訳でもない)男性同士手を繋ぐのは、仲の良い友達がするごく自然な行為なのでした。別にゲイでは無かったのです。つまり、彼は、遠い国から来てくれた素直なジャパニ(?)とこうして親しく友達になって、映画を見に行く事に多少の優越感があったのかもしれないし、それを地元の人々に見せびらかしたいと言う気持ちも少しはあったのかも。もしくは、そんな俗的な考えでは無くただ純粋に異国の若者に対して親切にしてくれただけだったのかもしれない。彼の言動からはどちらかと言えば後者のニュアンスのほうがより自然な気がした。
まあ、とにかく、この国の面白い習慣を体験できたことは喜ばしい事だ。ちなみにパキスタン映画のほうは、言葉がウルドゥー語だし字幕なんかある訳ないので、しかも恐ろしく長い映画(インド映画なども同様、平気で4時間くらい上映する)だったため、お世辞にも楽しい映画とは言えなかったが、ケバブ屋の彼にカラコルムの町で映画を観させて貰ったことだけでもこんな幸せな事は無いでしょう。
パキスタン人は一般に、バカが付くくらい親切だ。親切を通りこしてウットオシイと感じてしまうこともあるくらいだ。イスラマバードやラワルピンディなどの大都市でも、こっちが困っているそぶりを見せようものなら(或いはそんなそぶりが無くても)、「ようし、わかった。俺に任せろ。一緒にそこまで行こうじゃないか。じゃあ、俺の家に来てお茶を飲もう。腹が減ったな?晩飯を食べて行けよ。」ということに普通になる。「明日もおいでよ。散歩をしようじゃないか。」とか、「俺の友達も呼んでおくから、みんなで卓球でもしよう。」とか、そういうことに普通になる。僕は何度こういう親切に出会ったか分らない。そんな中で一度だって騙されたり、盗まれたりしたことも無い。
話は変わりますが、パキスタン(というかイスラム圏全般かも?)には面白い習慣があります。パキスタンは広い国(日本の約2倍)ですが、僕の行先は決まって“北部地方(Northern Area)”です。なぜかと言うと世界第2位の高峰K2(別称:ゴッドウィンオースチン山、中国名チョゴリ)や、“魔の山ナンガパルバット”などカラコルム山脈の山々があるし、インダス川源流部の大峡谷、中国国境クンジェラーブ峠、不老長寿のフンザ王国、人種のルツボとも言われるギルギットの町など、その魅力は尽きないからです。そのギルギットという北部地方の中心とも言える街に数日間滞在したことがあります。一人旅だったし、チャンスがあればトレッキングみたいな山歩きをしようと思っていたので、小さなテントや最低限のキャンプ道具を担いでいました。ギルギットには多くの宿泊施設がありましたが、せっかくテントがあるのだから、町でもテントに泊まろうと考えた。しかし、そのへんのオジサンが普通に鉄砲を抱えて歩いているような町だし、時々宗教派閥抗争でドンパチがあって人が死ぬような土地だから、その辺の空き地にテントを張るのは危険だし無謀だと思った。そこで、ある広い中庭を持つ安そうなホテルに頼んで、中庭にテントを張らせてもらったのです。宿の主人に「中庭にキャンプさせて下さい。」と言うと、二つ返事でOK。さすがに無料はないので、幾らかと聞いたら(確か)20ルピーと言われた。当時で80円くらいでしょうか?
ギルギットはメインストリートがびろ~んと長く、その両脇にお店やレストランやホテルなどが連なっています。その中の一件のレストランに通うようになって、そこの髭を蓄えた精悍な顔つきのご主人と少し親しくなったのです。パキスタン人の男性はたいてい髭を生やしています。彼は、歌手の松崎しげるに少し似ていて、体格が良く切符の良い感じの男でした。ある日、彼に誘われて、ギルギットの映画館に行きました。面白い映画をやっているから観に行かないか?と誘われたのです。
“ハイウェイ”と言われれば、普通は「高速道路」か「自動車専用道路」をイメージするでしょう。でも、それはいわゆる先進諸国の住民の考えで、世界には想像を超えたハイウェイが数多く存在します。
中でも“カラコルムハイウェイ”はイチオシです。別に押す必要はないですが、前述のイメージを完全に覆すという意味では、世界一ではないでしょうか?
なにしろ、未舗装なのは当たり前、しばしば
そう、ネパール語に限らず、未知の言語を憶えようとするときに、まず取っ掛かりとして有効且つ利用価値が大きいのが「数」である。
数はどんな言語にも存在するし、数を言えれば会話の一部は成立する。実際、日常生活の中で数を言わない日は無いだろう。何時に来ますか?何人ですか?何個必要ですか?・・・等々、数は人間にとって非常に重要な位置を占めている。
話は逸れるが、動物は数を数えるだろうか?犬が数を数えて「ワン、ワン、ワン!(3つです)」と言っているかどうかは確かめようもないが、想像するに動物は多分、数を数えはしないだろう。何故なら動物は時計を持たないし時間の概念すらないだろう。餌になる虫を何個食べるか決めてから食べないし、たいていは腹いっぱいになるまでか、或いは目の前にある捕獲可能な量だけ食べるだろう。
さて、僕もまずはネパール語を1から10まで憶えることにした。ガイドのモハンや宿のお姉さんに教えてもらった。
エク(1)、ドゥイ(2)、ティーン(3)、チャール(4)、パーンチ(5)、ツォ(6)、サート(7)、アート(8)、ノウ(9)、ダス(10)
日本語にも英語にも、似ても似つかぬ数字。これはインドのヒンドゥー語、パキスタンのウルドゥー語などもほとんど同じように言う(ということが後でわかった)。しかし、一部、ネパール訛りなのか、ヒンドゥーやウルドゥーで2は“ドー”というし、6は“チェ”と言う。
数を10まで覚えたら次は身近なものの単語を憶える。この場合は、実用的だから食べ物や飲み物が良い。僕が最初に憶えたのは(と断言はできないが多分)、“お茶(チヤ)”、“水(パニ)”、“ご飯=食事(カナ)”など。
お茶と言えばネパールでは紅茶、しかも普通は砂糖たっぷりのミルクティーを指し、“チヤ”と言う。インドなどで“チャイ”と呼ばれる物に近い。コップの事は“カップ”と言う。“下さい”は“ディノース(正確にはディヌ・ホス、正確と入ってもカタカナでの表現には限界がある)”。
これで、宿のお姉さんに「お茶を一杯下さい。」と話しかける事が可能になった。内向的な自分には結構勇気のいることだが、ある茶店で「エク・カップ・チヤ・ディノース」と言ってみた。お姉さんは「ハジュール(かしこまりました、的な言葉)!」と言って、理解してくれた。
ああ、嬉しいな!
ところで、たった一人で外国に行く場合、当然ながら“会話”が大きな問題となり、コミュニケーションの障壁となる。今は世界中に日本人が住んでいるし、よっぽど辺鄙な場所でなければいくらマイナーな地域でも、旅行中に数人の日本人に出会ったり、見かけたりするものだ。
夏のヨーロッパ、特に人気の高いアルプスの観光地へ行けば、6両編成の登山電車のうち、5両半が日本人、ということも決して珍しい事でではない。そんな状況なら別に無理して英語や現地語を話す必要もないし、話す機会も少ない。
僕が生まれて初めての外国、27年前のネパールの、しかも街から遠く離れたヒマラヤ山脈を歩いている時でさえ、数人の日本人トレッカーに出会った。
とは言え、ガイドも宿のおじさんも、飯屋のお姉さんも当然皆ネパール人だから、「ちょっと休ませて欲しい。」とか、「今日泊まれますか?」とか、「昼飯ありますか?」とか言いたいときに日本語で言っても通じない。ネパール語でなくても、英語を話せれば結構な山奥でも不自由は無かった。外国人トレッカーが多いネパールの山中では、学校なんて行ったこともない村人たちでも、ある程度の英語は喋るからだ。それは生活のためでもあるからだ。そんな彼らは喋る、聴くはOKでも、読む、書くはほとんどできない。これは一般的な日本人の状況と真逆と言える。どっちが役に立つか?もちろん、前者に決まってる。そして、この現象は現在でもさほど変化が無い。
当時は僕も英語なんてほとんど喋れなかったが、中学校で習った英単語を並べたてることくらいは出来た。必要に迫られれば必死になる。そのため、超ブロークンではあるものの、一定のコミュニケーションは取れたのだ。しかし、問題なのは、もともと話題に乏しく、積極性に欠ける自分の性格の方だった。特に日本に居ても対人コミュニケーションが不得手なので、対する人がネパール人に変わっても、その会話は極めて不毛なものになってしまう。
でも、せっかくネパールまで来ているのだから、出来るだけネパール語というものを憶えよう、という気になったのだ。
ここで死んでしまうかも知れない!恐ろしい一夜が明けた。不思議な事に、全身を震わせたあれほどの高熱はすっかり下がってしまい、むしろスッキリ気分の良い朝になった。空腹感さえ覚える。あの、恐怖の悪寒は一体なんだったのだろう???急性の赤痢とか、急性のA型肝炎なんかがあるとしたら、それかもしれない。驚くほど急激に高熱が出て、そしてその後急速に平熱に戻った。病気ではなくあまりの目まぐるしいカルチャーショックに精神が付いていけない一種の知恵熱のようなものだったのかもしれない。